米の重さ

 税金はきちっと払いたい。働かざる者食うべからず。懸命に働き、懸命に今を生きる。食足りて人あり。人ありて村あり、村ありて国あり。これが健康に生きるコツ。
 
 安土桃山時代に実施された太閤検地により、一つの土地の耕作者がその土地の唯一の権利者となり、土地の生産力は米の見込生産量である石高で計れれることとなった。江戸時代は,検地法(田を役人が視察して収穫量を見込んで年貢を決定)を採用したが、年によって不作の時があるとやがて定免法(田の面積に応じて年貢を決定)そして、年貢米が収穫できないちいきでは、買収制が例外的に認められていた。明治6年の地租改正により、年貢は廃止された。

 yjimage (10)葉県成田市に佐倉惣五郎記念館がある。江戸時代封建制度で苦しむ10万大衆の為に、意を決して将軍に直訴するため惣五郎は雪の降りしきる印旛の渡しの綱を断ち切って掟を破り江戸に向かった。この物語は歌舞伎「東山桜総荘子」として上演され当時は大盛況を収めた演目として語られている。そこには、小作人はいくら一生懸命に米を作っても作っても年貢にとられ、わずかばかりのむしろついた米を拾い集めて飢えをしのぐ当時の究極の極貧生活がありました。直訴に及んだ佐倉惣五郎は打ち首刑、残された惣五郎の妻や幼い子供までもが処刑されてしまったのです。江戸時代、年貢の取り立てをめぐって農民一揆が各地で発生しました。そんな時代をあったことを忘れてはいけません。

 沖縄県宮古島平良湊に近い場所に、人頭税の基準石が残されています。琉球が薩摩に合流された際。yjimage (11)子供もこの石(140センチくらい)になると一人前の働き手として税をおさめなければなりませんでした。この税を納める為に、村人は朝早くから暗くなるまで田んぼで働きつづけ、それでも上納できないほど酷税だったのです。こけし伝説は、女性が過酷な条件の中、流産を強要されたり、働けない村人は消えてしまった(殺された)という悲惨な話もあります。上納できない村人は島分けと言って、親兄弟から遠く離れて、新たな耕作地の開墾作業などより過酷な条件で働かされたのです。生きることがやっとのせいかつだったのです。

 ご飯をの残すとよく母に叱られました。農家の働きのおかげでお米がある。先人の多くは飢えにおびえながら、やっと生活をしていたのです。飢餓の歴史の方がながいのです。一粒の米に感謝。

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