死んだ男の残したものは

鹿児島県、知覧特攻隊記念館には、特攻隊の遺書が展示してある。そこに多く書かれているものは、おかあさんへの感謝の言葉であり、食べ物への感謝の言葉である。明日食べたくても、その日ははもう無い。食育を学ぶ原点がここにある。贈る朝に、かあちゃんの塩にぎりが、この世でいちばん美味しかった。1人1人の遺書は、涙無くして声にならない。

特攻隊員の遺書

武田竹司少尉(享年18歳)「大好きな餅が食べたい」

昭和二十年四月十二日、第三回神雷桜花特別攻撃隊で
一式陸攻の搭乗員として出撃、南西諸島方面にて戦死。

 

来年、第2回目の東京オリンピックが開催される。昭和39年10月あの日、円谷幸吉は、国立競技場に第2位で入ってきた、ものすごい歓声の中第3コーナーでヒートリー選手に抜かれて第3位。翌年に、遺書を残して自らの命を絶った。親友であった君原健二は、毎年円谷記念マラソンに参加し、お墓参りをしている。とろろ、美味しゅうございました。
川端康成は、円谷の遺書について、「相手ごと食べものごとに繰りかへされる〈美味しゆうございました〉といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」と語り、「千万言も尽くせぬ哀切である」と評した(「一草一花――『伊豆の踊子』の作者」の「十一」、『風景』1968年3月号初出)[4]。当時の関係者からは「ノイローゼによる発作的自殺」「選手生命が終わったにもかかわらず指導者に転向できなかった円谷自身の力不足が原因」など様々な憶測が語られたが、三島由紀夫はこれらの無責任な発言に対し『円谷二尉の自刃』の中で、「円谷選手の死のやうな崇高な死を、ノイローゼなどといふ言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きてゐる人間の思ひ上がりの醜さは許しがたい。それは傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であつた」[5]と強い調子で批判し、最後に、「そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、“青”だけに属してゐるのである」[5]と締めくくった。また、沢木耕太郎は「円谷の遺書には、(円谷が)幼いころ聞いたまじないや不気味な呪文のような響きがある」と述べている(『敗れざる者たち』所収「長距離ランナーの遺書」)



食べ物を粗末にしていませんか?自分がまず笑顔なら、笑顔の素晴らしい人に出会えます。食べ物を粗末に扱うひとは、人からゴミのように扱われるのです。幼い日、誰もがおかあさんから、いただきます。ご馳走さま、を習っています。この言葉を、感謝を込めていいましょう。心が変われば、身体はきれいになるのですから。