不都合な真実(厚生省の栄養指導の誤りが、今日の姿)

香川綾氏について、鈴木猛夫氏は”学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 」”に次のように書かれておられる。



「厚生省の栄養課長として栄養改善運動の先頭に立って活動した大磯敏雄氏の食哲学に関してはこの連載の№9、10、11の3回にわたって取り上げた。氏は小麦食(パン食)の優位性を強調しその普及に尽力し戦後の食生活欧米化のために多大な「貢献」をされたが、民間の立場で戦後の栄養改善運動のために尽力をされたのが香川栄養学校の創立者である香川綾氏である。




戦前は主食論争で胚芽米推進に熱心だった夫の香川省三氏と共に食生活改善の為に活動した。




昭和8年に家庭食養研究会を発足させ12年に女子栄養学園へと発展させ胚芽米を主食として、胚芽米4、野菜4、魚1、豆1の割合という日本の伝統食に基づく食生活を指導していた。




ところが戦後は一転して欧米型の食生活普及の為に尽力するようになった。


例えばその普及手段として食品群をいくつかに分類しそれらを過不足なく摂取することを勧めるという方法を指導した。五つの食品群(昭和23年頃)、七つの食品群(25年頃)、四つの食品群(31年頃)、そして昭和45年頃から四群点数法という独特の分類法を採用し今日に至っている。いずれの分類法でも牛乳、卵、乳製品などの有用性を強調する意味からこれらの食品を第一群に分類しさらに肉類、油脂類を積極的に勧めるという指導内容で、戦前までの食事指導とは様変わりの洋食志向であった。




戦後の栄養教育の面で指導的な役割を果たしてきた日本最大の栄養学校だけに卒業生も多く日本人の食生活に与えてきた影響は大きなものがある。綾先生の栄養指導が戦後急速に洋食へと変化していった裏にはアメリカの存在があった。」




「昭和26年、香川綾先生は大変なご苦労をされて女子栄養短大を創立させたが、その苦しい時に裏で資金面、精神面で大きく支えたのが31の食品会社、個人24人からなる後援会組織であった。後援会長は豊年製油社長、副会長に味の素社長、理事に日清製粉社長など有力者が並んだ。




綾先生の自伝「栄養学と私の半生記」によると栄養短大設立までの過程は困難を極め絶望的なまでの状況であったという。そんな時、物心両面で支えてくれた後援会メンバーの暖かい支援にはこの上なく感謝の念が生まれたことであろう。何とか恩返しをしたいという気持が生まれても不思議はない。」




「筆者は綾先生の果たしてきた役割に大きな疑問を持っている。一生懸命教育された現代栄養学は日本人の体質に合わない欧米流栄養学であり、日本では広めるべき内容ではなかった。そしてもう一つ懸念される点は食品公害に対する綾先生の静観的な態度である。昭和40年代以降、食品添加物の危険性等々の食品公害問題はマスコミで広く報道され、大きな社会問題になっていた。それらの公害問題について筆者は当時、食生活関連の雑誌記者だったこともあり、綾先生の動向に注目していた。世評では日本人の栄養改善に大きな功績を果たしたという肯定的な評価が一般的だが、しかし注意深く見てきた筆者には綾先生が公害問題についてあまり発言されないことに納得がいかない思いだった。




その理由は後で分かったのだが綾先生の栄養学校は前号にも書いたように製油会社、製粉会社、化学調味料メーカーなど種々の食品業界の支援を受けて創立されたことに関連する。創立当時の苦しい状況下で手厚く支援してくれた食品会社に対する配慮からか、食品公害に果敢に挑むという姿勢が希薄であったように思う。綾先生に限らず当時の栄養関係者はおおむね深入りすることを避けていたように思うので綾先生だけの問題ではないが、しかし影響力が大きかっただけに責任も重い。




「米は「健康によくない」「ガンになる」「太る」などという誤った論調がマスコミをにぎわし、米に問題ありとの宣伝がパンメーカーなどから意図的に流されたりもした。国の内外から学校給食の主食はパンという力が働いたのである。主食がパンになると副食はミルク、バター、チーズ、肉類、油脂類等の欧米型食生活になりやすく、日本人の体質に合わず生活習慣病(成人病)の原因となる。




戦後日本の栄養教育に大きな貢献をした香川栄養学園創立者の香川綾先生は、終戦直後の食糧難時代に学童達がミルク給食の結果、体位が著しく向上したのを目の当たりにしてミルクの効果を実感したという。それ以後熱心に牛乳普及に情熱を注いでこられた。しかし飢餓状態の時は何を食べても吸収が良く体位は向上するのが普通で、牛乳が総合的に考えて本当に体に良い飲み物かどうかは問題がある。


牛乳の中にはエネルギーの基になる乳糖が含まれているが、これをうまく消化、吸収して体内に取り入れることができるかどうかが牛乳の良否を判断する時の大事な要素になるが、日本人は欧米人と違い乳糖分解酵素が少なく、うまく消化、吸収できないのだ。


牛乳を飲むと下痢しやすいとか、アトピーなどのアレルギーを起しやすいというのは、明らかに牛乳に対する体の拒否反応である。牛乳を長く飲み続けてきたという歴史は日本にはなく、従って乳糖分解酵素は必要なかった。欧米流の栄養学を鵜呑みにしたパンとミルクという学校給食は生活習慣病予備軍を一生懸命作っている。」




「現在、日本は小麦、大豆、トウモロコシの9割以上をアメリカをはじめとする諸外国からの輸入に頼っていて、自給率を押し下げる大きな要因になっている。それら三品は戦後アメリカが最も諸外国に輸出したかった農産物であり、その最大の市場となったのが日本である。アメリカは様々な手段で日本への売込みに成功したが、日本側栄養関係者も大きな手助けをしたのである。




ご飯に味噌汁、漬物、魚貝類、海藻類、おやつはサツマイモなどという日本で産出される食材ばかりが消費されるような食生活ではアメリカ小麦戦略は決して成功しないわけで、何が何でもアメリカ産農産物であるパン用小麦、家畜飼料のトウモロコシや大豆カスなどが大量に消費されるような食生活こそ望ましかったのである。




栄養学校ではパンや牛乳、肉類などの畜産物の優位性が声高に語られ、その線に沿った欧米型栄養学が教育され、近代的で望ましい食生活として国民にも積極的に勧められた。欧米型栄養学こそ正にアメリカ側も日本側栄養関係者も等しく日本で普及するのに望ましい栄養学だと考えたのである。栄養学校は正にそんな欧米流栄養学啓蒙の場であり、戦後の食生活を根本からおかしくさせた出発点ともいえる。




パンの原料は小麦であり、牛乳、肉類、乳製品の元になるのは大豆カス、トウモロコシ等の家畜飼料、さらに油の原料となるのは大豆、トウモロコシである。この三品を日本ですんなり消費してもらうにはパンや畜産物、油脂類がいかに優れた食品であるかの啓蒙活動が必要であった。」




「戦後アメリカは日本の食品業界育成の為に大変な努力をした。中でも製粉会社、油脂会社、加工食品メーカーの育成には熱心だった。いずれもアメリカ農産物消費に大きく貢献する業界だったからである。それらの業界が綾先生の栄養学校設立に尽力したということは当時の情勢からみてアメリカ側の意向も働いたとみるのが妥当だ。アメリカ農産物消費に大きく貢献する栄養学校の設立はこの上なく頼もしい存在に見えたことであろう。




戦前まで「胚芽米4、野菜4、魚1、豆1」の日本型栄養学普及に尽力していた綾先生はこうして戦後は一転してパン、牛乳、肉類、乳製品、油脂類などを積極的に勧める欧米型栄養学の普及に全力をあげることになった。




アメリカでPL480法案(前出)が成立し日本に対する本格的な小麦戦略が始まった昭和32年に綾先生はアメリカから招待され食物、栄養の教育関係機関、行政、施設などを研究視察している。アメリカはこの時期、PL480法案で捻出された膨大な対日工作資金を使って日本の栄養関係者、畜産関係者、食品メーカーを数多くアメリカに招き、パンや畜産物、油脂類が栄養的にいかに優れているかをアピールしている。




当然日本の栄養行政にも反映されることになり、栄養学校を管轄する厚生省の意向が強く働いた栄養教育が行われた。アメリカ産農産物を大量に消費するのに都合の良い栄養学が見事に日本で定着し栄養改善運動は成功した。しかし今その弊害が欧米型疾患の蔓延、深刻化という状況となって随所に現れている。さらに食糧自給率は先進国中最低の4割にまで落ち込んでしまった。農林省などが地産地消運動等によって自給率向上を目指しているが、それには欧米型栄養学に頼る今の食生活の見直しから始めるべきではないだろうか。」




「日本最大の栄養学校であり、多くの栄養士を搬出してきた女子栄養大学、同短大、香川栄養専門学校などのいわゆる香川栄養学園は戦後の栄養教育のメッカともいえるほど大きな指導的役割を果たしてきた。創立者の香川綾先生は国の栄養審議会の委員として長く栄養行政に大きな発言力を持ち戦後の栄養学普及の為に献身的な努力をされ、その功績は高く評価されてきた。」




以上、香川綾氏は明らかにアメリカに有利になるように栄養学という名に於いて学校教育をし、その教え子が栄養士となりまたは教授となり或いは保健所の栄養指導に携わったり、学校給食の献立を考えたり、アメリカ栄養素学が正義であるかのように日本を席巻しているのです。


香川芳子氏も口を開けば牛乳を飲みましょうと言っていました。




香川家は栄えましたがそれは日本人を食い物にしたお陰です。


そして、日本人の健康はおかしくなり、そして食料自給率は先進国で最低という状況に来ています。ほとんど日本は沈没していると言っても良い状況にあります。




香川芳子氏もCIAの手先ですし、女子栄養大学教授も層ですし、そこを卒業した人達も本人が自覚しない内にアメリカに貢献し、日本破壊をしているのです。




拙稿「
有本邦太郎先生は懺悔した」で書きましたが、もう一度再掲します。



『”日本人は米国に餌付けされた。その手先になったのが私だ。自分の教え子たちが、その政策に沿って世界に例のない一億総国際食実験をやっている。いずれ大変なことになるだろう”  1976年、東京で開かれた「第17回農民の健康会議」。パネリストとして「医は食に、食は農に学べ」と医・食・農の連携を説いた竹熊先生に会議終了後、やはりパネリストの元国立栄養研究所長、有本邦太郎先生(故人)が打ち明けた。  有本は46年、厚生省(当時)に新設された栄養課の初代課長。それは戦後日本の栄養行政を方向づけた責任者の懺悔だった。”もう私は退官し、力がない。取り返しはつかない…。竹熊さん、あとを頼む”  




「餌付け」とは、戦後の食糧難の時代に始まった『米国小麦戦略』のこと。栄養不足にあえぐ日本の子どもたちの命をパンと脱脂粉乳で救った学校給食の裏には、戦争終結によって輸出先を失い、小麦余剰に悩む米国の仕掛けがあった。政府は全国食生活改善協会などを中心に「栄養改善運動」を開始。56年から米国の小麦栽培者連盟などの資金援助をもとに、栄養士を乗せたキッチンカーを走らせ、全国2万カ所で小麦と大豆(油)を使ったホットケーキやスパゲティなどの粉食を広める「フライパン運動」を展開した。 さらに「コメを食うと頭が悪くなる」とする説を大学教授が発表するなど、米国型食生活は頭と胃袋の両面から、日本人を“洗脳”した。そして今、パン食に慣れ親しんだ子どもたちが大人になり、食卓の風景は大きく変化した。 国民一人当たりのコメの年間消費量は63キロと、この40年で半減。肉など食の洋風化(高脂質、高カロリー食)で体格は向上したものの、生活習慣病やアレルギー、アトピーなど新たな病気が急増している。皮肉にも、米国ではヘルシー食として和食への関心が高い。』




香川綾氏も香川芳子氏も、また女子栄養大教授もそこの卒業生もその罪の大きさについて認識すらしていない。




日本の食の改悪を、大学から保健所から厚労省から文科省からそして農水省、学校給食とがっちりと、アメリカ食推進体制が組み上げられ、もうどうにもならない状況に来ています。




だが、私は微力ながら問題点を指摘し同志が多くなるのを待つことにします。


2009.8.10NHKのきょうの料理は「おいしいサンドイッチ 有本葉子」


です。公共放送も率先してアメリカの小麦を宣伝し、それがおかしいとは言われないところがおかしい日本なのです。自国の主食をないがしろにするようなことは先進国では許されないのです。

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