介護雑感36

看とりの重要性は不変

今日、89才の 女性が施設から緊急搬送されました コロナ禍の影響で 施設への面会は 原則的に使用されています。クリニックの看護婦さんも、救急隊員も、まず、新型コロナウイルス検査、陽性であったならば、対応が違ってくる。搬送先が決まったのは、その後90分後である。

高齢者施設に入所されている方の、面会は昨年5月から、禁止。コロナ感染であれば、施設から病院へ搬送。勿論、ずーと面会謝絶、お亡くなっても、御遺体に会ってお別れすることもできない。人格ある存在であり、ものではない。

親しい人の死をきちっと弔うことができない辛さは言葉にできないほど、大きなもの。 感染した人、その家族、後遺症が出た人に加え亡くなった人と、遺族もこの中の被害者であるといえます。

地方に行くと身内がコロナで亡くなったことについて周囲に知られたくないという声が多いのです。コロナを出した家というレッテルを貼られることに極端に恐れているのです。

人間は人間にしかできない、弔うという行為を太古の昔から続けてきました。 いつの時代も死後の世界に思いを馳せてきました。自分だけでなく親しい人に対しても死後の幸福を願いそれによってつながりを確認してきたんです。 現代において生者と死者のつながりの重要性が変わったわけではありません。

コロナ下で、直面した時代だからこそ特に看とり期の面会には大きな意味があることを社会として、しっかり認識するべきだと思います。

私は 遺族の事ばかりではなく 現場の経験者として 医療に携わる方々の 並々ならぬご努力を知る時 、軽々しくこの問題は 扱ってはいけないのだとも感じています。

また、直葬や家族葬、1日葬や海洋散骨、合同墓地公園埋葬等、はかを作らない傾向にもあります。墓を作ることだけが、正統派とはいえませんが、簡単に葬儀、埋葬をまるで、ゴミ扱いでは、自分や子孫にはバチが当たります。

弔うという儀式は これから生きていく人間にとっては、 大変重要な意味を持つものですから 、コロナが終息をし、盛大にお葬式をお見送りできることを 切に願っています

9月29日産経新聞 プラザ記事 引用
102歳の誕生日長寿の母に感謝

9月中旬母は102歳になった。近くの特養施設に入りまもなく5年になる。3月に体調を崩したが、何とか持ち直しほっとしたのもつかの間、8月には感染に伴う尿路感染症になった。 ここまで生きてくれたんだから、せめて、誕生日まではと願い施設の方々の尽力もあって、誕生日おめでたく迎えられた。

長生きしてくれた母の、たくさんの思い出があることが嬉しい。敬老の日を前に身近に102歳が3人もいるなんて凄いなあと74歳の夫が呟いた 。東京に住む母の尋常小学校時代の同級生も、愛知に住む私の友人の母も102歳の同級生である いずれも、母の面倒を見るのは、実の娘で70代半ばいわゆる老々介護だ。 みんな「母より先に死ねない、」と口をそろえる。 体調に不安を抱えながらも、懸命に生きている母から、頑張る力をもらっている。 何歳になっても、親はありがたいと改めて感じるこの中で敬老の日は面会できなかった。同じように寂しい思いをしている大勢の母子たちに思いを馳せた 千葉県小杉。 

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