白米ばかり食べる日本人を襲った「ある病気」の正体とは? 作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。
米を主食にする国々の中でも、日本人ほど品種や炊き方にこだわる人々も少ないと言われている。わたしたちが普段食べるうるち米だけでも、のべ440品種以上が登録(平成29年度)されているというから驚く。
最近は健康面を考えて白米に玄米や雑穀を混ぜて炊く家庭も増えているが、やはり食べておいしいのは白米だけで炊いたご飯、すなわち白ご飯だ。炊きたての白ご飯に味噌汁とぬか漬けの一品でもあればあとは何もいらない、という人も少なくない。
かつては「ごちそう」だった白ご飯
そんな日本人になじみ深い白ご飯だが、一体いつごろから食べられているのか調べてみると、意外なことがわかった。実は一部の大都市圏を除き、常食するようになったのは明治時代に入ってからなのだ。
たとえば江戸時代、江戸に住む人たちに限っては長屋暮らしの八っつあん熊さんたちでも日に3度、白ご飯を食べていたが、一歩江戸の郊外に出ると、米農家であっても作った米の大半が年貢として取られてしまうため、白ご飯を食べることができたのは祭礼の日などに限られた。まさに「ハレ」の日のご馳走だったのである。
したがって大方の日本人は白米を常食するようになってまだ百数十年しかたっていないのだ。本稿ではそんな白米食の歴史と、なぜ江戸っ子だけが白ご飯を食べることができたのか、そしてそれによって生まれた「江戸患い」と呼ばれた白米食の弊害についても語ってみたい。
玄米を精米して食べるようになったのは奈良時代のことらしい。精米によってビタミンという栄養を含んだ胚芽部分やぬか層を捨ててしまうことになるのだが、もちろんそんな知識は当時の人たちにはない。胚芽やぬか層が残っていると、たんに食べたときに味や食感、消化も悪くなるからそうしただけのことである。
しかし、この精米作業はなにぶん重労働なので、庶民は玄米を軽く精米したものを蒸して食べる「強飯(こわいい)」を長く常食してきた。白米は貴族など一部の特権階級に限られていたらしい。
室町時代に入ると農業技術の進歩や新田開発もあって、全国的に米の生産量が増大する。しかし、庶民が日常的に白米を食べるまでにはまだ至っていない。それが少しずつ改善してきたのは江戸時代になり、世の中が安定して米の生産量が一段と増大するようになってからである。
中国から足踏み式精米が伝わり、精米作業が大幅に省力化されたことも大きかった。それまでは餅をつくように臼と杵で精米していたのだが、これは大変な重労働であった。
その点、シーソー式の足踏み精米なら労力は半減するうえ従来より大量の玄米を短時間で精米できた。さらに江戸も中期になると、水車を動力にして精米する技術が広がり、精米がより簡単に、より大量にできるようになったのである。こうして精米された白米は、大消費地である江戸にどんどん流れ込んだ。
白米ばかり食べる人を悩ます「江戸患い」とは?
江戸っ子は元来が見栄っ張りである。おかずを削ってでも白ご飯を食べることを好んだ。水道で産湯をつかったことと、日に三度白ご飯を食べられることが、何よりの自慢だったという。
これは江戸が急造都市で肉体労働者が多かったことと無縁ではないだろう。日々、肉体労働に汗を流すと、どうしても塩気の多いおかずが欲しくなり、そうしたおかずには分づき米で炊いたご飯よりも断然白米で炊いたご飯のほうが相性は良かった。
もう一つ、江戸っ子に白ご飯が好まれた理由に、当時の食習慣が関係していた。当時の家庭はどこでも炊飯は朝一回きりで、昼も夜も朝炊いた残りを食べた。そうなると玄米に近い分づき米だと、夜ともなればご飯がプーンと不快なにおいを放つようになる。夏場なら尚更だ。それが嫌で極力白米を選んだわけである。
ところが、大好きな白米を買うと、それほど稼ぎがあるわけではないので、おかずを買うまでの余裕はない。そこで自然、ご飯だけをたくさん食べることになる。
その結果、ビタミン不足が原因で中枢神経が侵されて足元がふらついたり倦怠感や心不全、いらいらなど様々な脚気症状を招いてしまった。この病気は参勤交代で江戸に暮らす勤番侍に多かったことから「江戸患い」とも呼ばれた。
日本史上、「脚気」が原因で亡くなったと思われる有名人は少なくない。徳川将軍家などは3代家光、5代綱吉、13代家定、14代家茂とまさにオンパレードである。
なかでも14代家茂の場合は特にかわいそうだった。家茂は20歳かそこらで長州征討のさなかに病死するのだが、相思相愛だった夫人の皇女和宮もその後32歳の若さで亡くなっている。夫婦そろって脚気が原因とみられている。
脚気は「贅沢病」だった?
近年の研究では、豊臣秀吉も脚気で亡くなったとする説が有力視されている。晩年の秀吉が悩まされていた、下痢や失禁、精神錯乱などはまさにビタミン不足によるものだという。してみると、秀吉が晩年になって甥の秀次に切腹を命じたり、朝鮮出兵を言い出したりしたことも、脚気のせいだったと考えると、少しは同情したくなるのだが、これは筆者だけだろうか。
この脚気は、いったん患うと数日で亡くなることも珍しくなかった。飽きやすく何をしても長続きしない人のことを嘲って「三日坊主」というたとえがあるが、この言葉は本来、脚気を患ってたった3日で亡くなってしまい、坊主(僧侶)を手配しなければならなくなった、という意味だとも言われている。真偽は定かでないが、それほど江戸の人々にとっては怖い病気だったということである。
脚気が江戸患いとも言われ、勤番侍に罹患する者が多かった。これは、国元では滅多に食べられない白ご飯が江戸ではいくらでも食べられることに感激し、在府中に白ご飯ばかり食べ続けたからである。
したがって、国元に戻っていつもどおりの玄米に近い分づき米に雑穀や大根などを混ぜて炊いたご飯(「かてめし」という)を食べていると、いつのまにか体調不良がケロッと治ってしまった。このことから「贅沢病」と言われたりもしたという。
こうしたことを江戸時代の人々は体験的に知っていたのである。とりわけ江戸っ子たちにぬか漬けやそばが好まれたが、ぬかは精米時に玄米から取り除いたものだし、そばも現代ではビタミンをたっぷり含んでいることがわかっている。こうした食べ物から、精米で捨ててしまったビタミンを無意識のうちに補っていたわけである。
この脚気という厄介な病気は、江戸時代が終わって、明治、大正時代になっても日本人を悩ませ続けた。特に明治から大正時代にかけては江戸時代よりもはるかに多くの患者を出し続けたとみられており、肺結核と並んで二大国民病とも言われた。
脚気による死亡者数がピークとなった大正12年にはなんと2万6796人もの人々が1年間に亡くなっていた。
明治・大正期に脚気が蔓延した大きな理由は、「軍隊」にあった。明治の世となり、政府は西欧列強に追いつくため「富国強兵」と「殖産興業」をスローガンに掲げたことはご存じのとおり。
特に富国強兵策として明治6年に「徴兵令」を公布し、全国の農村から若者を集めた。その際政府は、若者たちに対し軍隊に入れば1日6合の白米を食べさせると約束したのである。
この条件は当時の農村の若者たちにとっては実に魅力的だった。御一新を迎えるまでは年貢年貢で締め付けられ、ほとんど白ご飯を食べられなかっただけに、それが毎日腹いっぱい食べられるとあって農家の次三男坊は喜んで軍隊に飛び込んだ。そして、白ご飯を食べまくった。このことが脚気患者を著しく増やす原因となった。
日清戦争(明治27年)では約20万の兵を動員したが、その2割までが脚気患者だった。これは公式に認定された数字で実数はもっと多いとみられている。しかも、患者の大半は陸軍の兵であった。海軍のほうはビタミンの存在にこそ気づかたよいていなかったものの、偏った栄養摂取が脚気の原因であると考え、早くから兵食改革に乗り出していた。そのことが功を奏したのである。
一方の陸軍は、脚気は伝染病の一種で空気感染によって起こるという東大医学部が唱えた説を頑なに支持していて、その後も兵らに与える食事に対しなんら対策を講じなかった。
脚気を食い止めなかった森鷗外の失敗
その結果は10年後の日露戦争でもはっきり表れた。戦病死者3万7200余人のうち、脚気による死者は実に約75パーセントに当たる2万7800人を数えた(『医海時報』明治41年10月)。
この数字から逆算すれば脚気にかかった陸軍兵士の総数は30万人を超えていたとみられている。一方の海軍はこの日露戦争での脚気の罹患者は87人で、亡くなったのは3人にとどまっている。
ここにきてさすがの陸軍も兵食改革に着手するかに思われたが、世の中全体が戦勝ムードに浮かれていたこともあり、改革どころか陸軍幹部の責任も一切問われなかった。その責任を負うべき中心的人物に、当時は陸軍省医務局の幹部だった森鷗外(のちの文豪)がいたことは記憶にとどめておきたい。
その後、明治43年になり、農芸化学の鈴木梅太郎博士が、ぬかの中からビタミンを抽出することに成功する。しかし、鈴木博士は医学者ではなかったため医学界からは何年も黙殺された。これも脚気患者を増やす一因となった。
日本人の永い永い脚気との戦いにようやく終止符が打たれたのは大正時代も末期になってからであった。