酒井雄哉大阿闍梨

 千日回峰行の毎日の食事は、いっぱいのうどんとゆでたジャガイモ、胡麻豆腐たったそれだけの食事である。人は腹いっぱいに食べたら動けなくなるし、不健康になる現代は食べ過ぎだけれどミネラル不足の栄養失調で病が蔓延する。長寿遺伝子は空腹時でスイッチがはいる。(三橋 敏次)

甲田療法を学んだ森美智代さんは毎日の新鮮な野菜ジュースだけで生きているし、インドの行者は食べなくても生きられるという

大阪市玉造生まれ。旧制中学卒業後、1941年(昭和16年)慶應義塾商業学校(慶應義塾大学の夜間商業学校)に入学。落第生で卒業が危ぶまれたため、慶應義塾の教授に薦められ、1944年(昭和19年)、熊本県人吉の予科練に入隊した。そこで半年間の訓練を受けた後、宮崎県の宮崎海軍航空隊(後の松島海軍航空隊、陸上攻撃機)所属を経て、鹿児島県の鹿屋飛行場に移る。特別攻撃隊員として終戦を迎えた。
戦後は図書館職員を諸事情により職場放棄、ラーメン屋を開業するが火事で廃業、株売買の代理店を始めるが大暴落で1億円の負債を抱え借金取りに追われ、そば屋の店員、菓子店のセールスマンなど職を転々とする。33歳のとき結婚するが、結婚早々妻が大阪の実家に帰り、連れ戻そうと迎えに行ったことがきっかけで自殺してしまうという事件があり、ショックを受けて以後抜け殻のような生活を送る。その後39歳のとき得度し比叡山延暦寺に入る。千日回峰行に挑む前には、明治時代に死者が出て以来中断していた「常行三昧」という厳しい行を達成。
しかし酒井はこれに満足せず、半年後に2度目の千日回峰行に入った。そして、1987年(昭和62年)7月、60歳という最高齢で2度目の満行を達成した。2度の回峰行を達成したものは1000年を越える比叡山の歴史の中でも3人しかいない。

比叡山に伝わる難行中の難行だ。この千日回峰行を達成した行者は、比叡山が信長に焼かれた16世紀以来、わずかに50人たらず。

千日回峰行の荒行にスタートする行者の懐には、小刀と1本の縄がおさめられているという。もし、体力気力が続かず、途中で千日回峰行を投げ出すときには、死を覚悟するということだろう。中略(700日達成の後には、もっと厳しい「堂入り」という難行が控えている)

この千日回峰行を達成した行者の一人の、食事のメニューを見て、私は愕然とした。まず一日2食である。それも全く同じ献立で「堂入り」(堂入りのときは断食)以外の1千日あまりをすごすのだ。

塩茹でのじゃがいも2個 豆腐半丁 うどん半皿

それがすべてだ。それ以外のものは一切口にしない。それで想像を絶する荒行を続け、1日に少ない日で、30キロ、多い日は
80キロを飛ぶように歩き、峰々を巡拝するのである。カロリー計算はいったいどうなっているのか。インプットするエネルギーと、
アウトプットするエネルギーの差し引きはあるのか。

私はその難行を貫徹した方と会って、色々話をうかがった。おだやかな風貌の小柄な方だった。どうしてそんなことがありうるんでしょうね」
と聞くと、行者は少し考えて、こう答えた。「行だからですよ。スポーツだったら無理でしょうね」

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五木寛之食事

低炭水化物ダイエットをしている人は、考えることがあるんじゃない?

理屈ではなく、これだけの食事で健康的な生活が出来て入るという事実を認めないわけにはいかない。

五木さんは、朝食はなし。昼というより午後に活字を読みながら、うどんとかサンドイッチを適当に食べる。夜は有名料亭で仕事がらみの夕食が多いが、出されるものの三分の一ぐらいしか箸をつけない。本当はカレーライス1杯でいいとか。

現在74歳だと思うが、一年の半分は旅をする生活。その上に仕事がめちゃ忙しい。でも、これだけの食事量でいいのだ。これだけしか食べないからいいのだ。甲田光雄先生の、半日断食健康法を実践しているような方だと感じた。

やっぱり健康で長生きするコツは、少食だ。「食事量を少し控えた」と自覚した2~3時間後はとても体が喜んでいるのがわかる。
とても気分がいいのに、ついつい食欲に任せて食べることが多い。50代は腹7分だって。o( ̄ー ̄;)ゞううむ できるだけ心がけよう。

食事と健康の関係を真剣に研究した人は、 「バランスの良い少食が、病気にならないコツ」と言っている。
30品目も摂っていたら、食べすぎになってしまう