石塚左玄 食養の祖

食育の祖 石塚左玄物語

投稿日:2013911 | カテゴリー:石塚左玄物語

1. 現代の救世主石塚左玄に食の心を学ぶ
 今や世の中は正に食育ブームです。そして各地で食育推進大会として食育そのものが大会やイベントとなり、所によっては地域おこしの材料にさえなっています。確かに現在の食生活は乱れ切っていますが、しかし食育と言う言葉や4年前に出来た食育基本法なる法律をもって『朝食を食べましょう』とか『親子で一緒に料理を作りましょう』などと言わなければならない事は実に残念です。
乱れた現代食を飽食と言いますが、漢字で書くと放食・崩食・泡食・呆食・砲食などと表現されています。どの漢字も今の日本食を適格に表しています。そしてその日本食は無家庭・無関心・無国籍・無季節・無秩序・無安全・無安心・無原形・無平衡です。無が頭につく状況です。(無がついても無添加とか、無農薬はいい意味合いですが。)
人により寿命は違いますから一概には言えませんが私たちは生涯に約9万回の
食事をする事になります。9万回もの大きな数字が私たちの日々の健康を左右するのです。ですから食は単に生きるためではなく、有意義な人生を健康で過ごすためにも食の大切な機能があります。然るに現実はその逆で食によって病気を生んでいます。現代病とか裕福病とか言われますが生活習慣病(かっては成人病と呼ばれましたが、大人だけでなく子供にも発症するので表現が変えられました)、その際たるものは糖尿病ですが、厚労省によれば糖尿病とその予備軍が今や2000万人になりつつあり、大人の5人から6人に一人が対象となっています。
そのために諸悪の根源である肥満・メタボリックシンドロームを予防する事に今国をあげて努力しています。
糖尿病などの重度の生活習慣病は長期間かかって発症するものであり、それに至るまでにはこれと言った自覚症状もなく、自分で体調が異常であると認識した時には既に手遅れになっていると言われます。本人には病気進行中にあるにもかかわらず、なかなか自覚し難い事が悪化の大きな要因となっています。病気進行中でありながら病気と言う自覚・感覚がありませんから、生活習慣病は自分の事でなくて他人事になっています。
そして相応に悪くなって初めて自分の体調異変に気づきますが、その時には既に遅いのです。

そこで生活習慣病・メタボリックシンドローム予防のためにも最も重要となる食を今一度自分のために、特に将来ある子供たちのために見つめ直さなければなりません。
しかしなんと今から100年も前に日本人の健康を憂慮して、国民に食の重要性を啓蒙した人が存在しました。
食育の祖と呼ばれている石塚左玄ですが明治時代世はまさに文明開化の真っ只中、石塚左玄は日本で初めて『食育』なる言葉を本に書いて『食育』と『食』の重要性を提言しました。食育こそ全ての教育の根幹であり、子供にとってあらゆる基礎となる非常に大事な事であると訴えました。子供にとって『食育』は親が家庭で行う最優先事項であると説きました。『食育』なる言葉を本に用い、食の大事さを説き、石塚食療所という診療所を開設して食の実践指導を行い、食を大事にし、左玄の思想が食で悩んでいる現代社会に十分に示唆し答えを与えてくれているからこそ食育の祖とも食育の魁とも称されているのです。私は左玄の食育・食養論をとり入れて施行された食育基本法生みの親とも思っています。
そこで石塚左玄の生い立ちや彼の幅広い交流・私生活もつまびやかにして、彼が進めた食育論の解明し食育の先人としての左玄を紹介していきます。希望にあふれる子供達未来のためにも今早急に見直しをしなければならないと言われている家庭での食の崩壊の危機に参考なれば幸いに思います。前述したように今は病気にならないための予防が大事です。
消防車は火事の消火の仕事が本業でなくて、火事を起こさせないように啓蒙啓発するのが本来の業務です。警察は交通事故の現場検証をするのが仕事でなくて、交通事故が発生しないように市民に注意をして、事故を無くするのがやるべき仕事です。
昨今話題のメタボリックシンドローム改善の柱は第1に食生活を含む生活習慣の見直しです。又その事が老年時の介護予防にもつながります。単に平均寿命の長さではなく、心身ともに元気で健康で生涯を過す健康寿命がたった1回しかない人生に求められています。
健康長寿と言う言葉は、健康であり、長生きをすると言う二つの人間の願望を表わしています。健康長寿のどちらが欠けても駄目なのです。
石塚左玄の人物像なり彼が提案した食育論は次回以降に譲るとして、石塚左玄の名前が本格的に知られるようになってまだ数年しかたっていません。食育基本法なる法律が平成17年6月10日に成立した事によって全国の食育関係者が石塚左玄を知る所となりました。
この法成立で、石塚左玄が現代に蘇り関係者に注目される事となったのです。
何故今石塚左玄なのか?との問いには食育基本法の内容が正に石塚左玄の食育論実践にあるからです。その法律が目指しているのは飽食や崩食と揶揄される現代の食生活を本来の健全な食生活に引き戻す推進にあります。
日本の食の歴史で食生活大変化があったのは、明治の肉解禁を初めとする食の洋風化導入の時期と過度の洋風化が進み、それにより病気を生んでいる現代です。当時と現代の食の背景には洋風化・欧米化という共通語があります。
そのような食生活の大変革だからこそ石塚左玄の食育には説得力があるのかも知れません。しかし、石塚左玄も食育基本法も決して特別な食生活を推奨しているわけではありません。
本来のあるべき家庭での食事と家族の絆を中心とした楽しい食生活を指しています。
私が思うに食・食生活が何故にこのように異常になったのか?
最大の理由は親たちが日々の食生活を軽んじている現代社会の風潮が問題でないでしょう
か?
心してつくるべきはずの毎日の食事を、時間がないからとか仕事が忙しいからとかの理由でついついおろそかにしてしまいがちで、本来の正しい食生活が難しくなり、あらゆる中で最優先事項であったはずの食がそうでなくなった事です。生命を維持するのに最も重要な食が現代社会における様々の理由でおろそかにされているのです。
家庭生活で子供達にとって一番大事な事は何か、そして何時でもどこでも好きな物をたらふく食べれる豊かな食生活になった反面失くしたものは何か今一度真剣に考えるべきです。
もう1点は洋風化欧米化の食生活が日本型食生活より優っていると勘違いしてその様に実践していることです。石塚左玄は『日本人には日本人にあった食生活がある。地域の農産物・海産物が地域に住む人の食になり、地域に住む人の心と身体を作り養ってきた。だから地域に住む人は地域の農産物・海産物を食する事が自然で身体に優しくより健康的で地域には地域に特有の食生活が大事である。』と言いました。
そもそも食は文化そのものです。文化はその地域に根ざした地域固有のものです。その地域の美味しい物を食べようとするならば、その地域で食する事が大事です。それを何時でもどこででも食べようとするから、季節を無視して世界各地から輸入したり、原形を留めないまでに加工したり、味付けや保存のために多くの添加物を使用しました。現代の私たちの周囲の食生活で、食品の種類・数は驚くほどに増加し、消費者の欲望をこれでもかと誘いますが、その一方でその食品の品質は毎年低下している感がします。
今日本型食生活は全世界から最も注目されているヘルシーな食です。それは栄養バランス的にも優れている食と言えるからです。
石塚左玄は現代に生きる私たちの救世主です。今こそ石塚左玄という先人が教えてくれた大切な言葉を現代版に置き変えて学ぶ価値が多いにあると思います。

写真  26歳の写真

食育の祖 石塚左玄物語
2.
先見性満ちた左玄の生涯

今を去ること157年前 嘉永四年(1851)2月4日に福井市子安町(現在の宝永4丁目付近)に町医師泰輔の長男(母は由留)として生まれました。生まれた時代は、折しも徳川封建制度が終わりを告げようとする江戸末期から明治を迎えようとしているさ中で、当時の日本には諸外国からの開国要求が頻繁に発生し騒然としていた頃です。左玄の生家に近い幕末の志士橋本佐内が安政の大獄で刑死するのは左玄誕生から8年後の事です。石塚家と橋本家は近所のよしみに留まらず、町医と藩医(橋本家は代々藩医)を乗り越えた両家の交流がありました。死体の解剖が許される時になっても町医師には許可が出ませんでしたが、藩医と町医が合同でする事で許されたのが文久元年(1861)です。左玄の伯父である町医師石塚泰庵が解剖を許されていますが、それは左内の父長綱の支援援助と言われています。左内の弟であり、陸軍軍医総監、大学南校(東大)教授、初代日本赤十字病院院長、東宮拝診御用を勤めた橋本綱常を左玄は「綱常殿は私の生涯の大恩人である」と言っています。綱常は明治の医学発展の功労者の最たる人物ですが、左玄の後ろ立てとなり常に支援をしています。そして綱常も左玄の能力を高く評価して彼の力を借りている点もあります。
左玄の名前が福井藩関係の文書に最初に出てくるのは慶応三年(1867)で、そこでは福井藩の医学所にて医師の勉強のために通学している事が見受けられます。
江戸時代から明治に変わった元年には福井藩医学校雇いとなり、明治二年七月には読試補となっています。その後藩病院にて薬剤師としての調合方勤務や、医師としての診察方の勤務をしています。然るに明治四年の中央集権政策の廃藩置県により、福井藩知事松平春嶽候も上京し、藩病院も12月には廃院となります。
当時福井藩が雇いとしてアメリカから福井に来て化学や語学等を教えていたグリフィスが廃藩置県により福井を去り、南校(後の東京帝国大学)の教授になって上京しました。それまでに左玄は昼は病院で働き夜はグリフィスを訪ねて保健学や化学を教わっています。その恩師が福井を去ることを知った左玄はグリフィスの後を追うように(実際は左玄が先に上京)東京へ出て、グリフィスが南校の教授になるや左玄はグリフィスの助手として働いています。
左玄は後に多くの書物を書いていますが、そのタイトルに化学という文字をたびたび引用しているのが見受けられます。もっともポピュラーな彼の『食物養生法』も化学的食養体心論と副題をつけています。左玄は常に西洋の医学・栄養学・保健学を対極において考えています。しかし西洋医学等を単に否定したのでなくて、彼は日本古来の漢方的医学を化学的に基礎付け、化学的に裏づけされた漢方的医学を基礎にした食での治療を目指したのです。その意味でグリフィスが左玄に与えた化学的考察の影響は計り知れない大きいものがあります。
しかし理由は明確ではありませんが、短期間でグリフィスの研究室を離れます。
そして約1年の間に左玄は猛勉強をして正式に医師と薬剤師の資格を取得します。
その後彼は文部省医務局(東京大学医学部)でお雇い教師のマルチン教授の下で助手をします。明治七年23歳の時陸軍に軍医試補として採用されて、ようやく本格的な生活の糧を得ることになり結婚します。明治十年には西南戦争に従軍して熊本・長崎の軍団病院で薬剤官として働きました。このときの上司は橋本綱常であり、軍医として仕事の枠を越えて同郷の左玄を個人的に支援続けました。
西南の役従軍直前に東京の写真館で撮った写真(1月号の掲載写真)は、26歳の若さに満ちあふれその顔は現代にも通じるハンサム青年です。しかし彼は若年時から、ヘブラ病と言われる大人になっても治らない頑固な掻痒を伴う皮膚病に患っており、腎臓も患う等軍医でありながら時には患者でもあり入退院を繰り返していました。その間の明治二八年には日清戦争で朝鮮半島に従軍をしています。
病気の事により明治二九年に陸軍少将薬剤監の予備役となり、陸軍を退職しました。陸軍薬剤師では少将が最高の職位です。
左玄を食医と言わせしめ程に左玄が食を大事にしたのは正に彼の持病に理由があるのです。
左玄は病気だったからこそ、健康と食について考え実践し、食の力・食の美・食の誠を追求し続け、食が心と身体の健康を左右しているから正しい食生活の重要性を国民に知らせしめようと彼の人生を捧げました。

家庭では長女が明治九年に生まれ、次女が十五年、左玄の後継者となる長男右玄が十八年に生まれ順風そのものでしたが、十九年に妻が死亡し二一年に福井の伊藤督(こう)と再婚します。
督婦人も素晴らしい内助の功を発揮し、左玄亡き後も前妻の長男を助けて左玄の食養・食育論を進めました。軍医退役後は東京の市谷に石塚食療所という診療所を開設して、望診法という独自の診察を行い、そして患者に食指導を行い治療を行ったのです。医師の処方箋には薬の名前が書かれますが、彼の処方箋には食事内容や食事方法が書かれてありました。それ故に患者は左玄を食医と呼んだのです。左玄は昆布・蒟蒻・大根・蓮根を多いに勧めたそうで、左玄を大根医者と比喩したとも言われています。彼の診療所は毎日多くの詰め掛ける患者でにぎわったと伝えられています。
そして明治四十年に多くの賛同者の下に食養会が発足し、左玄はその顧問になります。
食養会は化学的食養雑誌を機関誌として毎月発刊します。毎月の100ページ近い機関誌は彼の食への熱い想いと力強いパワーを彷彿させます。機関誌冒頭には食養会の趣旨を、『人生最大の基礎たる生命及び精神たるところは、食をおろそかにおいては原因を発見する能はず。・・・一身一家の健全を計りて正食的の人格を成育し、幾許か国家の為貢献する』とあります。
明治四二年八月、地元の強い要請に応えて、病気の身でありながらも、静岡に講演に赴き、その講演途中に倒れてしまいました。ようやくにして自宅に戻るもそれ以降は寝たきりで、十月十七日に尿毒症のために永眠しました。当時多くの者達に見送られて、浅草の浄土宗光明寺に葬られました。そこで彼は静かに眠っていますが直ぐにでも起きて乱れた食生活に一喝をしたいと考えているでしょう。本年は左玄死後満100年の記念すべき節目の年でもあります。

石塚左玄の主要略歴

嘉永四年(1851) 福井市子安町で町医泰輔の長男として生誕
慶応三年(1867) 福井藩医学所に通学
明治元年(1868)  福井藩医学校雇い
明治二年(1869)   〃    読試補
明治三年(1870) 泉病院 調合方勤務 (給録 12)
明治四年(1871) 泉病院 診察方調合方勤務・グリフィスに学ぶ(給録 20)
明治五年(1872) 上京後 東大南校でグリフィスの助手
明治六年(1873) 薬剤師と医師の資格取得
〃   (1873) 文部省にてマルチンの助手
明治七年(1874) 陸軍軍医試補となる。 結婚
明治九年(1876) 長女文枝誕生
明治十年(1877) 西南戦争従軍
明治十三年(1880)「飲水要論」発表
明治十五年(1882) 次女本枝誕生
明治十八年(1885) 長男 右玄誕生
明治十九年(1886) 妻死亡
明治二一年(1888) 伊藤督と再婚
明治二八年(1895) 日清戦争従軍
明治二九年(1896) 陸軍少将薬剤監で陸軍退職
〃         「化学的食養長寿論」発表 石塚食療所開設
明治三一年(1898) 「食物養生法」を発刊
明治四十年(1907) 食養会発足左玄が顧問
明治四二年(1909) 58歳尿毒症で死亡