終戦記念日に食を考える

今日は、75回目の終戦記念日、毎年恒例の日本武道館での追悼式は、新型コロナウイルスの影響で参加者は530名あまり、今日も真夏の

カンカン照りの陽ざしが降り注いでいます。

今日のサンケイ新聞を参考に

私の旅館は、松島海軍航空隊から特攻訓練生13名の世話を命ぜられた。学徒出陣の志願兵で、飛行機の操縦を数カ月で教え込まれ、敵艦の体当たり訓練が仕上がると、鹿児島県鹿屋の基地へ。そこから進発して、10人が散華した。過酷な訓練の合間を縫ってやってきて、祖母と母は食材の無い中でも、可能な可能な限りのおいしい食事を提供し、誰もがいい顔をしていた。幼い妹たちを膝の上に抱いて「お山の杉の子」を歌ってくれた。死とめぐりあわせであり、戦うしかなかった時代、日本人みんなが大きな目的に向かって助けあっていた。特攻隊の遺書には、お母さんや、お母さんが手料理が食べたい。決して豪華な食事ではないに違いないけれど、食事の記憶は、忘れない。

そういえば、新型コロナウイルスがなければ、東京オリンピック。前回マラソンで銅メタルだった円谷幸吉は翌年自ら走る辛さと、走れぬ辛さの葛藤から自ら命を絶った。そこ遺書も、家族や食べ物のことが延々と描かれていた。結婚の問題を上司に反対されたり、練習の仕方でいろいな葛藤があったに違いない。そんなことは、微塵も触れずに、家族に詫びる姿に涙したことを今も鮮明に覚えている。男は、女よりもナイーブで弱いのかも知れない。

食べ物を大切に食べたい、終戦の記念日を迎えて今さらに考える時なのではないでしょうか?明日、食事をできない人もいる。1日を大切に生きて、一食を大切に感謝して食べる。

 

私の母は、子供のころ横須賀の鉈切で兵隊さんに太鼓焼き(さつま芋をふかして1センチくらいに輪切りにして鉄板で両面を焼く)を売っていた母の手伝いをして兵隊さんに可愛がってもらって、学校もあんまり行かなかったと聞いたことがある。芋は手切りなので、1つ1つ大きさがも違うし、暑さもばらばら。おばあちゃんは、朝早くから夜遅くまで働きづくめであったけれど、お金のことを聞いたことが無いと言っていた。近くのお豆腐さんから、朝、(親戚)豆乳をやすく譲ってもらって、兵隊さんに振舞っていた。その後、戦争が終わって、東京に奉公に出されたり、疎開も経験したけれど、子供の頃に母に習った、兵隊さんの笑顔が励みになんとか頑張れたような気がするといっていた。僕が小学2年生のころ、おじいちゃんが喘息で、夜中中咳をしていた。郵便局でわずかばかりの生命保険を入っていたが、自分が死ななければおりない保険だった。解約して、まんじゅうをのどに詰まらせて往生したい。でもそれもできず、亡くなってから降ろそうとしたら、死亡届や契約した郵便局までいかなければならないこともあって、結局諦めてしまったそうだ。生きる為には、食べなければならない、そのひと時ひと時にを大切にしなければならない。

終戦から、学ぶものは多い。

 

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SAYA