江戸しぐさ

江戸時代は、260年以上もの間、経済の繁栄と戦争のない平和がもたらされた時代です。そこには江戸商人のリーダーたちが築き上げた、よりよく生きるルールのようなものがありました。その基本は思いやりの心(惻隠の情)を持って、みんなが仲良く、平和の下で共に生きるために争い事を少なくし、人に対する言葉遣いやしぐさにも気を配るというものです。次第に江戸の町に住む人たちにも浸透していったと言われています。そのような日本の心、特に江戸ならではの心映えが、後に芝三光師(江戸時代から6代にわたって続いた家系。曽祖父、祖父が江戸の講の講師)によって「江戸しぐさ」と名付けられ、芝師に師事した越川禮子氏が「江戸しぐさ」の語り部として今に伝承してきました。

 

 


越川禮子の語る「江戸食事仕様」

 「非常食、加工食の教えも残っている。『江戸食事仕様』はグルメの話ではなく、実際は危急時に備える食事のことだ。一種の非常食のことで、生で食べられる物は生で食べ、少し煮て食べる物は少し煮て、よく煮なければならない物は、みんなで一緒に煮て食べるように、エネルギーの節約も教えていた」(越川禮子『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』149頁)

「(江戸の町衆は)健康維持のために食事にはことに気をつかった。『江戸食事仕様』というと、江戸時代のグルメのような気がするが、考え方、内容はまったく違う。「仕様」とは、その日の健康を保持して、生き生きさせる元気のもとになることを教えたものだ。たとえば、ここに一本、鯖や鰹があったとしよう。高たんぱくで脂肪のない赤身で消化のよい部位はお年寄りへ、脂ののったトロは血気盛りの若衆へというように、年代と体調で無駄なく食べる食べ分け術がきちんと確立していた」(越川禮子、同、187頁)

『知恵袋』187頁からの引用後半における「トロ」の用法のおかしさはすでに『江戸しぐさの正体』で指摘したところである。

 この2例の引用を見ても共通なのは食事関係だがグルメの話ではない、ということだけで一方は非常食のレシピ、もう一方は健康法で統一がとれていない。また、『江戸食事仕様』という書名は『国書総目録』にも国立国会図書館のアーカイブにもみることはできない。越川氏の語り口を見てもそれがまとまった書物の名であるとは言明されていない。

芝三光の語った「江戸食事仕様」

 生前の芝も『江戸食事仕様』なるものの存在に言及している。それは『東京新聞』1985年5月2日付朝刊投書欄に「自由業 芝三光 62」という肩書で掲載された「『江戸しぐさ』効用あれこれ」という文章である。その一節には次のようにある。

「「江戸食事仕様」を守れば、私どもの体験が物語るように、花粉症やストレスなどで苦悩する方も激減するであろう」

 この書きぶりからすると、1980年代半ば時点での『江戸食事仕様』なるものはどうやら食養生、一種の健康法として想定されていたらしい。あるいは芝にはこれを「江戸しぐさ」に関する文献として成文化する構想があったのかも知れない。

芝の没後の発展

 しかし、結局、芝はその構想を発展させることができず、名称のみが実態不明の用語として越川氏に口伝で伝授されたということなのだろう。その結果、越川氏によって健康法とレシピ(しかも、江戸時代の実態にそぐわない)という形で、「江戸食事仕様」は整えられていく。

 なお、考古学者・樋口清之が著した『梅干と日本刀』(1974)は江戸ブームの先駆となったベストセラーだが、その中ではさまざまな非常食・保存食を用意していた前近代の日本人の知恵が称賛されている。

 たとえば戦国時代の武田信玄は保存食として塩分の強い「信玄味噌」を考案した、日本の集落に毒草の彼岸花が多くみられるのは飢饉の際に根を毒抜きして食べるために植えられたものだ、という具合である。

『江戸食事仕様』に非常食レシピとしての側面が与えられたのは樋口の著書の影響かも知れない。

 なお、「江戸ソップ」や「一に眠り、二に眠り、三に赤ナス、四にめざし」など越川氏が語る「江戸しぐさ」にしばしば見られる食養生(健康法)への施行も「江戸食事仕様」の発想の延長線上にあるものとみてよいだろう