ノモンハン の教訓..

今、東京の食糧は何日分ありますか?貴方の大切な人を守れますか?戦争で飢えることは、考えられないかも知れませんが、自然災害はそれこそすぐ手前かもしれません。

母の兄は、昭和14年ノモンハン において、ソ連軍戦車に 携帯地雷を手に持って体当りし戦死。今、横須賀市追浜の海近くに眠る。お墓は3メートル位の一枚である、蒲谷又一

 

秀光院誉殉忠海行居士
故陸軍歩兵上等兵勲八等功七級蒲谷又一の墓

当時我部隊は壮烈なる攻撃を開始し空中部隊の奮戦と のて敵をハルハ河畔へ 迫し
らずも千載一隅に除し当人は7月中旬酒井部隊へ転属を命ぜれるや直に前線へ動員毅
黙と比類なき気概も凄じく激越たる諸戦闘に参加せらん其武勲たるや 我が歴史上未曽
有の目覚しき戦績を遺しつつあり一時 も8月24日ノモンハン付近751 破 した
地の強敵を攻撃致し群り来敵戦車へ巧な匍匐前進で接敵し的確なる射撃で之に一本 高
り黙る中司令旗を掲げたる敵戦車が前面に現わるや憤然として之に猪突し携帯地雷を敷
設せんとしたる時不幸敵の重砲弾が足下に破裂し顔面砲弾破片創を受けて壮絶なる戦死
を遂げらる

昭和14年11月1日   原田中隊長

 

妹に宛てた手紙では寒さの中でも、元気にしており、、と最後の手紙につづられているが、その時には、食糧はほとんど残されてなく、なかばお国の為に自らの命をなげうった。幸いにも、その時の様子を書いた戦友のメモによって、詳細に記録され、遺骨の一部も父に返された。昔から腹が減っては戦は出来ぬという諺がある。

辻参謀の独断

日本の中央では事態を拡大させないように努めようとしたが,関東軍の参謀はそうは考えなかった. 特に,辻政信中佐を中心とする関東軍の作戦課の参謀達は,これこそ好機であるとし現地軍に対して独断で越境攻撃を命じた.。しかし,事実は違っていた. ソ連軍は十分な準備をしており,初期の航空戦では勝利したものの,地上戦は悲惨なものとなった. 大体,日本軍の兵站基地であるハイラルからは200kmも離れており,当時の日本軍の実情では補給が続かないのである.200キロは、東海道線で言えば、東京と静岡県藤枝駅までの距離。11月から2月の平均最高気温はマイナス9度未満。最低気温はマイナス27度。その寒さは、立ち小便がつららになると噂されている。真夏の最高気温は18度。満足に眠られる寝具さえない。ハイカルから米を運んでも約10時間あまり、炊飯し握るまでにはさらに数時間。停戦直前は、ハイカルにさえ食糧が不足していたが、最前線にいる歩兵部隊にはそれさえ察知したかのように戦いにのめり込み、見捨てられた状態の中で多くの命が奪われた。、

ノモンハン 事件

1939年昭和14年旧満州国現中国東北部とモンゴル人民共和国との国境線をめぐって起きた、日本-満洲国軍とソ連-モンゴル軍の武力衝突。日ソ両国とも宣戦布告をしなかったこともあり、全面戦争には至らず事件と呼ばれている。兵力-物資に勝るソ連軍が人的被害を被りながらもよ優位に展開、日本側が反撃する中で停戦した。日本軍も主力部隊が壊滅するなど大打撃を受け、死傷者は、双方合わせて4万人を超えるとされる。

  • 徒歩での移動能力に関しては歩兵は徹底的に訓練で鍛えられる。歩兵はしばしば50kg以上の装備を担いで、車両が入ってこられないような険しい地形を突破する必要があるため、マラソンや山岳地域の行軍などで体力と強い足腰を鍛える必要性がある。歩兵だけにいえることではないが、歩兵の根本的な任務は徒歩で複雑な地形を走破、また隠密的に移動することであるので、特に重要な事項であるといえる。

20190812日産経新聞朝刊 は、旧陸軍ノモンハン の教訓、大阪難波宮跡から機密資料15冊が見つかったと報じている。